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ローファンタジー 連載 余り部屋、畳みます 第一話

余り部屋

3,931字(四百字詰 9.8枚) 2026.10.28
文字
組

一

 うちの押入れの前には、整理箪笥が置いてある。

 母さんが八年前に置いた。俺の背が箪笥を越えたのは中学二年のときで、それからは毎朝、着替えるたびに、箪笥の上から裏の封板の頭が見える。銀色の金属の板に、市の封緘のシールが貼ってある。シールの角は、去年より少しめくれていた。

「朔、今日どこ」

 台所から母さんが言った。トースターが鳴る。

「駅の向こう。マンションの内装」

「お昼は」

「コンビニ」

 嘘は二つ目までにしておくことにしている。三つ重ねると、どれを言ったか分からなくなる。

 母さんは俺が内装屋の手伝いをしていると思っている。本当は、戸川住設という市の認定業者で、余り部屋を畳むアルバイトをしている。二年目になる。

 十二年前から、この国の家には、ある朝とつぜん戸が一つ増えるようになった。壁や押入れや冷蔵庫の裏に、昨日までなかった戸がある。開けると、間取りにない部屋がある。中には、その建物で誰かがなくした物が溜まっている。ニュースでは「余室」と言うが、現場の人間はみんな「余り部屋」と呼ぶ。

 うちの押入れにも、八年前、それが出た。

 父さんは様子を見ると言って入って、戻らなかった。三日後に市の人が来て、戸の上に封板を打った。人が中にいる部屋は、放っておくと隣の家の壁にまで戸が出はじめるから、と説明された。

 十一歳の俺は、母さんの後ろで、ネジの数を数えていた。八本だった。

「行ってきます」

「パン」

 トーストを一枚くわえて、玄関で靴を履いた。浅葱第二団地の四号棟、三階。階段を下りながら、スマホで今日の現場を開く。

 一号棟、二〇五号室。冷蔵庫の裏。

 同じ団地だった。

 一階の掲示板にも、市の紙が貼ってあった。〈一号棟で余室の届け出がありました。認定業者が作業します〉。その下に、誰かがボールペンで「家賃下がる?」と書き足している。

二

「なんで、よりによって、うちの団地なんすか」

「知るか。出たとこに行くんだよ」

 社長は軽トラの運転席から降りて、荷台のコンテナを叩いた。戸川澄江、五十六。元は大工で、いまも金づちを腰に下げている。

 一号棟の前は、母さんの通る道から一本外れている。それでも俺は、帽子のつばを下げた。

「楢崎くん、手袋」

 汐見さんが、俺の胸に作業用の手袋を押しつけた。二十三で、うちの正社員の測り手だ。首からレーザーの距離計を下げて、方眼紙を挟んだ板を持っている。

「古い部屋は、ガラスも釘も出るから。素手で触らない」

「分かってます」

 分かってはいる。ただ、俺には素手で触りたい理由がある。

 八年前、封板が打たれた夜から、俺の手は少しおかしくなった。この仕事を始めてから、余り部屋の物を握るたびに、出るはずがないと分かっていて、父さんの手を探している。父さんがいまも生きているという手がかりが一つでも見つかれば、あの封板を外す理由ができる。

 理由だけでは足りない。外せば、罪を問われるのは世帯主の母さんだ。戻ってこられる当てもない。だから、ネジに指をかけるわけにはいかない。

 二〇五号室の住人は、篠塚さんという年寄りの女の人だった。玄関で、俺たちの顔を順に見た。

「早く閉めてちょうだい。夜中に、戸の向こうで、なんか鳴るのよ」

「中の物を全部出したら、一晩で閉じます」

 汐見さんが言った。

「持ち主のいる物が一つも残っていなければ、部屋は畳まれます。今日中に出しきります」

「何が入ってるの」

「この一号棟で、これまでに誰かがなくした物です。よその棟の物は出ません」

 篠塚さんは、ふうん、と言った。

「これで、うちも『余室歴あり』って載るのね。管理事務所の人が、次に貸すとき困るって」

 それから台所を指さした。

 冷蔵庫を社長と二人でずらすと、壁に、白い戸があった。団地の部屋の戸と同じ形で、取っ手だけが、真鍮で古い。

 汐見さんが開けて、距離計の赤い点を奥の壁に当てた。

「奥行き二・七。……外から見たら、この裏は隣の部屋のはずなんだけど」

 余り部屋は、広さで嘘をつく。

三

 中は四畳半くらいで、窓がない。天井の電球だけが、どこからも電気が来ていないのに、点いている。

 床に、物が積もっていた。

 片方だけの軍手。錆びた自転車の鍵。プラスチックの髪留め。単三の電池が六本。給食の箸箱。黄ばんだ年賀状の束。この棟ができてからの三十何年分が、雪みたいに隅に寄っている。少し湿った、古い押入れのにおいがした。

 俺はコンテナを持ちこんで、物を種類ごとに入れていった。持ち主が分かりそうな物は青いコンテナ、分からない物は灰色。灰色は、あとで警察に遺失物として届ける。

 汐見さんは戸口で壁を測って、方眼紙に線を引いていた。社長は外で、篠塚さんと立ち話をしている。

 物の山の下から、上履きが出てきた。

 子どもの、小さい上履きだった。つま先のゴムが赤い。かかとの名前の欄は、マジックがにじんで読めない。

 この棟の子どもだった誰かの物だ。名前が読めなければ、灰色のコンテナに行く。

 俺は汐見さんの背中を見た。方眼紙に顔を近づけている。

 右の手袋を外して、ポケットに押しこんだ。上履きを、素手で握った。

 指先から、冷たいものが上ってくる。

 階段の手すりが見える。

 小さな手が、上履きの袋の紐を引きずっている。袋の口から、片方が半分出ている。

「ミカ、早く。二〇八の前で待ってるからね」

 上の階から、女の人の声がする。

 小さな手が手すりに伸びる。袋が傾いて、上履きが滑り出る。

 そこで切れた。

 十秒。

 俺の手に見えるのは、それで全部だった。余り部屋から出た物を素手で握ると、その物が持ち主の手を離れる直前の十秒が見える。

 そのかわり、見たあと、体が動かない。

 十秒の、十倍。百秒のあいだ、俺は立ったまま、指一本動かせない。目は開いたまま、まぶたも閉じられない。息だけはできる。

「楢崎くん、そっちの壁、ちょっとどいて」

 汐見さんの声がした。

 どけない。返事もできない。

「楢崎くん?」

 方眼紙の板が床に置かれる音がした。足音が近づいてくる。

 握った上履きを、素手のまま、汐見さんの目の前に晒している。手袋をしていない手を、見られたら終わりだ。素手で何をしていたのかと訊かれて、答えられる嘘を、俺は持っていない。

 頭の中で数えていた。まだ六十にもならない。

「……ちょっと、どうしたの」

 汐見さんが俺の肩に手を置こうとした、そのとき、戸の外から社長が怒鳴った。

「汐見、距離計の電池、替えとけって言ったろ。車にあるから取ってこい」

「いま、楢崎くんが」

「そいつは立ったまま寝る。ほっとけ」

 汐見さんは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、舌打ちを一つして、出ていった。

 足音が階段を下りていくと、社長は戸口で小さく言った。

「電池、替えてあるんだけどな」

 百秒が過ぎた。

 膝が抜けて、俺は物の山に手をついた。指先が、氷を握ったあとみたいに痛い。急いで手袋をはめた。

 社長は、まだ戸口にいた。

「何個目だ」

「一個目です」

「なら、もう一個くらいはいけるな」

 社長だけが、俺の手のことを知っている。届け出ると市の検査に回されて現場から外されるぞ、と言ったのも社長だ。便利だから黙っててやる、と。

「二〇八号室です」

 俺は言った。

「ミカって子です。上の階から母親が呼んでた」

 社長はスマホで住人の名簿を開いた。

「二〇八。……ずっと住んでる家だな。娘はとっくに大人だ」

「返します?」

「青いほうに入れとけ。夕方、あたしが持ってく」

四

 日が傾くころには、床がほとんど見えるようになった。青いコンテナが二つ、灰色が五つ。

 電池を替えて戻ってきた汐見さんは、しばらく黙って灰色のコンテナに蓋をしていた。それから、俺のほうを見ずに言った。

「さっき、本当に寝てたの」

「昨日、遅くまでゲームしてて」

「目、開いてたけど」

「開けたまま寝るんですよ、俺」

 汐見さんは、ふうん、と言った。篠塚さんと同じ言い方だった。信じていない言い方だ。

 朝の二つに、二つ足した。どれを誰に言ったか、もう怪しい。

 最後に残ったのは、部屋の隅の、電球の真下だった。埃をかぶった紙袋をどけると、その下に、腕時計があった。

 男物の、古い腕時計だった。革のベルトが割れている。文字盤のガラスに、斜めに一本、細い傷が入っていた。

 針は止まっていた。

 その傷を、俺は知っていた。

 父さんが、俺を肩車したまま団地の鉄のドアにぶつけた傷だ。七歳のときだった。俺は笑っていて、父さんは「母さんには言うな」と言った。

 でも、そんなはずはない。

 父さんは、あの時計をしたまま押入れに入った。

 汐見さんが言ったとおりだ。余り部屋に出るのは、その建物でなくした物だけだ。ここは一号棟で、うちは四号棟だ。父さんの時計がなくなったのは、四号棟の、うちの押入れの、封板の向こうのはずだった。

 汐見さんは外で方眼紙を清書している。社長は軽トラにコンテナを積んでいる。

 これを握れば、今日は二つ目になる。あと三つは大丈夫だ。

 俺は手袋を外した。

 時計を握ると、さっきより冷たいものが、肘まで来た。

 左の手首が見える。親指の付け根に、白い古い火傷の跡がある。

 右手の指が、その手首から時計の留め金を外している。

 遠くで、襖の滑る音がする。

「あなた、ご飯」

 母さんの声だ。若い。

「……文恵」

 低い声が、返事とも、ひとりごととも分からない小ささで言う。耳の奥で何度も聞いた声。

 時計が、畳でも板でもない白い床に置かれる。すぐ横に、片方だけの軍手が落ちている。

 そこで切れた。

 百秒、俺は電球の下で立ったまま、動けなかった。

 体が戻ると同時に、戸口で社長の声がした。

「楢崎、終わったか」

「……終わりました」

 俺は、時計を灰色のコンテナには入れなかった。作業着の胸のポケットに落として、ファスナーを閉めた。社長はもう背を向けて、階段を下りはじめていた。

 胸の上で、止まった時計が、骨に当たって硬い。

つづく