一
うちの押入れの前には、整理箪笥が置いてある。
母さんが八年前に置いた。俺の背が箪笥を越えたのは中学二年のときで、それからは毎朝、着替えるたびに、箪笥の上から裏の封板の頭が見える。銀色の金属の板に、市の封緘のシールが貼ってある。シールの角は、去年より少しめくれていた。
「朔、今日どこ」
台所から母さんが言った。トースターが鳴る。
「駅の向こう。マンションの内装」
「お昼は」
「コンビニ」
嘘は二つ目までにしておくことにしている。三つ重ねると、どれを言ったか分からなくなる。
母さんは俺が内装屋の手伝いをしていると思っている。本当は、戸川住設という市の認定業者で、余り部屋を畳むアルバイトをしている。二年目になる。
十二年前から、この国の家には、ある朝とつぜん戸が一つ増えるようになった。壁や押入れや冷蔵庫の裏に、昨日までなかった戸がある。開けると、間取りにない部屋がある。中には、その建物で誰かがなくした物が溜まっている。ニュースでは「余室」と言うが、現場の人間はみんな「余り部屋」と呼ぶ。
うちの押入れにも、八年前、それが出た。
父さんは様子を見ると言って入って、戻らなかった。三日後に市の人が来て、戸の上に封板を打った。人が中にいる部屋は、放っておくと隣の家の壁にまで戸が出はじめるから、と説明された。
十一歳の俺は、母さんの後ろで、ネジの数を数えていた。八本だった。
「行ってきます」
「パン」
トーストを一枚くわえて、玄関で靴を履いた。浅葱第二団地の四号棟、三階。階段を下りながら、スマホで今日の現場を開く。
一号棟、二〇五号室。冷蔵庫の裏。
同じ団地だった。
一階の掲示板にも、市の紙が貼ってあった。〈一号棟で余室の届け出がありました。認定業者が作業します〉。その下に、誰かがボールペンで「家賃下がる?」と書き足している。
二
「なんで、よりによって、うちの団地なんすか」
「知るか。出たとこに行くんだよ」
社長は軽トラの運転席から降りて、荷台のコンテナを叩いた。戸川澄江、五十六。元は大工で、いまも金づちを腰に下げている。
一号棟の前は、母さんの通る道から一本外れている。それでも俺は、帽子のつばを下げた。
「楢崎くん、手袋」
汐見さんが、俺の胸に作業用の手袋を押しつけた。二十三で、うちの正社員の測り手だ。首からレーザーの距離計を下げて、方眼紙を挟んだ板を持っている。
「古い部屋は、ガラスも釘も出るから。素手で触らない」
「分かってます」
分かってはいる。ただ、俺には素手で触りたい理由がある。
八年前、封板が打たれた夜から、俺の手は少しおかしくなった。この仕事を始めてから、余り部屋の物を握るたびに、出るはずがないと分かっていて、父さんの手を探している。父さんがいまも生きているという手がかりが一つでも見つかれば、あの封板を外す理由ができる。
理由だけでは足りない。外せば、罪を問われるのは世帯主の母さんだ。戻ってこられる当てもない。だから、ネジに指をかけるわけにはいかない。
二〇五号室の住人は、篠塚さんという年寄りの女の人だった。玄関で、俺たちの顔を順に見た。
「早く閉めてちょうだい。夜中に、戸の向こうで、なんか鳴るのよ」
「中の物を全部出したら、一晩で閉じます」
汐見さんが言った。
「持ち主のいる物が一つも残っていなければ、部屋は畳まれます。今日中に出しきります」
「何が入ってるの」
「この一号棟で、これまでに誰かがなくした物です。よその棟の物は出ません」
篠塚さんは、ふうん、と言った。
「これで、うちも『余室歴あり』って載るのね。管理事務所の人が、次に貸すとき困るって」
それから台所を指さした。
冷蔵庫を社長と二人でずらすと、壁に、白い戸があった。団地の部屋の戸と同じ形で、取っ手だけが、真鍮で古い。
汐見さんが開けて、距離計の赤い点を奥の壁に当てた。
「奥行き二・七。……外から見たら、この裏は隣の部屋のはずなんだけど」
余り部屋は、広さで嘘をつく。
三
中は四畳半くらいで、窓がない。天井の電球だけが、どこからも電気が来ていないのに、点いている。
床に、物が積もっていた。
片方だけの軍手。錆びた自転車の鍵。プラスチックの髪留め。単三の電池が六本。給食の箸箱。黄ばんだ年賀状の束。この棟ができてからの三十何年分が、雪みたいに隅に寄っている。少し湿った、古い押入れのにおいがした。
俺はコンテナを持ちこんで、物を種類ごとに入れていった。持ち主が分かりそうな物は青いコンテナ、分からない物は灰色。灰色は、あとで警察に遺失物として届ける。
汐見さんは戸口で壁を測って、方眼紙に線を引いていた。社長は外で、篠塚さんと立ち話をしている。
物の山の下から、上履きが出てきた。
子どもの、小さい上履きだった。つま先のゴムが赤い。かかとの名前の欄は、マジックがにじんで読めない。
この棟の子どもだった誰かの物だ。名前が読めなければ、灰色のコンテナに行く。
俺は汐見さんの背中を見た。方眼紙に顔を近づけている。
右の手袋を外して、ポケットに押しこんだ。上履きを、素手で握った。
指先から、冷たいものが上ってくる。
階段の手すりが見える。
小さな手が、上履きの袋の紐を引きずっている。袋の口から、片方が半分出ている。
「ミカ、早く。二〇八の前で待ってるからね」
上の階から、女の人の声がする。
小さな手が手すりに伸びる。袋が傾いて、上履きが滑り出る。
そこで切れた。
十秒。
俺の手に見えるのは、それで全部だった。余り部屋から出た物を素手で握ると、その物が持ち主の手を離れる直前の十秒が見える。
そのかわり、見たあと、体が動かない。
十秒の、十倍。百秒のあいだ、俺は立ったまま、指一本動かせない。目は開いたまま、まぶたも閉じられない。息だけはできる。
「楢崎くん、そっちの壁、ちょっとどいて」
汐見さんの声がした。
どけない。返事もできない。
「楢崎くん?」
方眼紙の板が床に置かれる音がした。足音が近づいてくる。
握った上履きを、素手のまま、汐見さんの目の前に晒している。手袋をしていない手を、見られたら終わりだ。素手で何をしていたのかと訊かれて、答えられる嘘を、俺は持っていない。
頭の中で数えていた。まだ六十にもならない。
「……ちょっと、どうしたの」
汐見さんが俺の肩に手を置こうとした、そのとき、戸の外から社長が怒鳴った。
「汐見、距離計の電池、替えとけって言ったろ。車にあるから取ってこい」
「いま、楢崎くんが」
「そいつは立ったまま寝る。ほっとけ」
汐見さんは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、舌打ちを一つして、出ていった。
足音が階段を下りていくと、社長は戸口で小さく言った。
「電池、替えてあるんだけどな」
百秒が過ぎた。
膝が抜けて、俺は物の山に手をついた。指先が、氷を握ったあとみたいに痛い。急いで手袋をはめた。
社長は、まだ戸口にいた。
「何個目だ」
「一個目です」
「なら、もう一個くらいはいけるな」
社長だけが、俺の手のことを知っている。届け出ると市の検査に回されて現場から外されるぞ、と言ったのも社長だ。便利だから黙っててやる、と。
「二〇八号室です」
俺は言った。
「ミカって子です。上の階から母親が呼んでた」
社長はスマホで住人の名簿を開いた。
「二〇八。……ずっと住んでる家だな。娘はとっくに大人だ」
「返します?」
「青いほうに入れとけ。夕方、あたしが持ってく」
四
日が傾くころには、床がほとんど見えるようになった。青いコンテナが二つ、灰色が五つ。
電池を替えて戻ってきた汐見さんは、しばらく黙って灰色のコンテナに蓋をしていた。それから、俺のほうを見ずに言った。
「さっき、本当に寝てたの」
「昨日、遅くまでゲームしてて」
「目、開いてたけど」
「開けたまま寝るんですよ、俺」
汐見さんは、ふうん、と言った。篠塚さんと同じ言い方だった。信じていない言い方だ。
朝の二つに、二つ足した。どれを誰に言ったか、もう怪しい。
最後に残ったのは、部屋の隅の、電球の真下だった。埃をかぶった紙袋をどけると、その下に、腕時計があった。
男物の、古い腕時計だった。革のベルトが割れている。文字盤のガラスに、斜めに一本、細い傷が入っていた。
針は止まっていた。
その傷を、俺は知っていた。
父さんが、俺を肩車したまま団地の鉄のドアにぶつけた傷だ。七歳のときだった。俺は笑っていて、父さんは「母さんには言うな」と言った。
でも、そんなはずはない。
父さんは、あの時計をしたまま押入れに入った。
汐見さんが言ったとおりだ。余り部屋に出るのは、その建物でなくした物だけだ。ここは一号棟で、うちは四号棟だ。父さんの時計がなくなったのは、四号棟の、うちの押入れの、封板の向こうのはずだった。
汐見さんは外で方眼紙を清書している。社長は軽トラにコンテナを積んでいる。
これを握れば、今日は二つ目になる。あと三つは大丈夫だ。
俺は手袋を外した。
時計を握ると、さっきより冷たいものが、肘まで来た。
左の手首が見える。親指の付け根に、白い古い火傷の跡がある。
右手の指が、その手首から時計の留め金を外している。
遠くで、襖の滑る音がする。
「あなた、ご飯」
母さんの声だ。若い。
「……文恵」
低い声が、返事とも、ひとりごととも分からない小ささで言う。耳の奥で何度も聞いた声。
時計が、畳でも板でもない白い床に置かれる。すぐ横に、片方だけの軍手が落ちている。
そこで切れた。
百秒、俺は電球の下で立ったまま、動けなかった。
体が戻ると同時に、戸口で社長の声がした。
「楢崎、終わったか」
「……終わりました」
俺は、時計を灰色のコンテナには入れなかった。作業着の胸のポケットに落として、ファスナーを閉めた。社長はもう背を向けて、階段を下りはじめていた。
胸の上で、止まった時計が、骨に当たって硬い。